2020/02/05

チャオプラヤー川沿いの注目の観光地 LHONG(回廊)1919

1919年に米財閥であるワンリー家はチャオプラヤー川の船着き場
フアイジュンロン(火船廊)を買取この場所に米、農産物輸出と
中国から輸入した茶、絹、陶器を売買する事務所を作り1階は
事務所で2階を宿舎とした。チャオプラヤー川西岸であるバンコクの
繁栄に比べて東岸であるトンブリーは繁栄から見放されていたようで
あったのにどうして東岸にある船着き場を買取ったのか。
それはその頃の交通網がチャオプラヤー川中心で船で行き来ができれば
バンコク側でもトンブリー側でも同じであったことを考えなければならない。
そして時が過ぎ運送業にトラックが出てくるとバンコク側のラーチャウォン、
ソンワート地区は賑やかになりチャオプラヤー川下流にはクロントーイ港
ができフアイジュンロン船着き場は衰退し始め最後には1ヶ月800バーツで
貸すアパートになっていた。そしてそれも建物の傷みが目立ち始め
解体を考えていた頃にアジアティーク、リバーフロント、ヨートピマーン・
リバーウォーク、アイコンサヤームなどの商業施設がチャオプラヤー川沿いに
出来始めワンリー家はこの建物を使って華僑文化の保護を名目として
観光名所とすることを目指した。華僑文化の保護を唱えるなら建物だけでは
不十分で特に船での往来が多かった華僑が信仰する海での事故を守る
道教の神さま媽祖の祠を作りMazo Shrineとして売り出している。
いずれにせよ現在のタイに住む中国人は何代もタイに住み儒教ましてや
道教など分かるはずもなく本当の華僑がいないように本当のタイ人は
いないと言われるほど見事に混血が進んだ国では仕方がないだろう。

媽祖の祠は横浜にもあるようであるが中国は北宋時代に実在した
福建省林氏の娘で生まれて1ヵ月も泣き声をあげないため、
「林黙娘(りんもうにゃん)」と名付けられた林氏の娘は、小さい時から才知に長け、
10歳の頃には朝晩欠かさず念仏を唱え、16歳で神から教えと
銅製の札を授けられたといわれている。神通力を駆使し、
むしろを用いて海を渡り、雲に乗って島を巡回し、札の力で悪や災いをしりぞけ、
病を癒す彼女を人々は、「通玄の霊女」と尊敬の意をこめて呼ぶようになった。
28歳の9月9日に修行を終え天に召された後も、赤い衣装をまとって
海上を舞い難民を救助する姿が見られたので、人々は廟を建てて
護国救民の神様として祀るようになった。その神通力は国に広まり、
歴代の皇帝も「天妃」「天后」「天上聖母」などの名を贈り敬意を表した。
「媽祖」は、航海を護る海の神様としてのみならず、自然災害や
疫病・戦争・盗賊から人々を護る女神様として、現在でも
中国大陸・台湾はもとより、華僑が住む世界各地で信仰されている。
文化や生活様式が全く異なる諸外国に移り住み、その地の人々や
環境と融合しながらも伝統文化を崩さずに、確固とした立場を築いて
地域社会の繁栄の一翼を担う華僑にとって「媽祖」は心のよりどころとなっている。